なぜか日本の世界史の教科書には出てきませんが、フィンランド国民が選ぶ最も偉大な自国の人物に選ばれるのがカール・グスタフ・エミール・マンネルハイムという人物です。

高福祉国家として知られる現在のフィンランドの礎を作った人物と言ってもよく、世界史的にみてもその存在感は大きいと言えるでしょう。

今回は教科書では語られないマンネルハイム将軍についてみていきましょう。

不遇だった幼少時代

マンネルハイムの祖父はフィンランド大公国の将校にして議員、後に伯爵の地位を得たためマンネルハイム家は比較的裕福な暮らしをしていましたが、父親は躁状態とうつ状態を繰り返す双極性障害をわずらっていたようで、破産したのち妻ではなく愛人と共に国外に移り住んだようです。

そのショックから母親は衰弱してしまい、1881年に病死してしまいます。マンネルヘイムの生まれが1867年ですので、13歳の時に両親がいなくなってしまったことになりますね。

肉親である叔父の家計も逼迫していたため、寄宿学校に通うことになり、そこで会計や経済を学ぶとともにスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、英語をマスターしましたが、叔父との対立や反発もあり素行はあまりよくなかったようで、在学していたフィンランド幼年学校を退学になってしまいます。

これによってフィンランド軍での栄達は望めないと判断したマンネルハイムはロシア帝国陸軍への入隊を決めます。

ロシア軍で将校に、日露戦争にも参加

学校を退学した後にはウクライナに移り住み、高校卒業資格の試験に合格、ニコラエフ騎兵学校へ進学すると次席の成績で卒業しロシア帝国陸軍に入隊、1892年には貴族の娘であるアナスタシア・アラフォヴァと結婚(1919年には離婚)、1904年には日露戦争にも参加しています。

日露戦争時の階級は中佐となっており、奉天会戦にて乃木希典の軍を捕捉するなどの功績をあげ戦後は大佐に昇進、その後は軍の命令でアジアへの調査旅行などに参加しており、その際ダライラマ13世との謁見を果たしており、日本の長崎や舞鶴にも立ち寄った記録が残されています。

旅行後は少将に昇進し、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世からはア・ラ・スーツと呼ばれる特別な称号を受けるなどロシア軍の内部にて確固たる地位を築いていきます。

一次大戦とロシア革命とフィンランド内線

1914年に第一次世界大戦が勃発するとマンネルハイムの人生は激流と呼べるほどの変遷をしていきます。

一次大戦では後のドイツ元帥ロンメルとの交戦などを経て中将に昇進しますが、ロマノフ朝ロシア帝国がロシア革命によってなくなってしまいます。

そのあおりを受ける形でマンネルヘイムは故郷フィンランドのヘルシンキに帰ることとなりました。

当時のフィンランドはロシアの属国という扱いでしたが、ロシア革命に乗じてフィンランド独立宣言が採択されるとフィンランドは独立国としての歩みを始めます。

この際フィンランドには軍隊がなかったため、当時のフィンランド首相スヴィンヒューは帰国したマンネルハイムにフィンランド軍の創設を委託します。

さて、当時の社会情勢は非常にややこしく、マンネルハイムが帰国した際のフィンランドには対ドイツ部隊として4万ものロシア軍が駐屯していました。

ロシア本国における初の社会主義革命の成功を受けて、ロシア軍の後ろ盾を得た社会主義勢力である赤衛軍がフィンランド国内で力を持ち、ヘルシンキでクーデターを起こします。日本の教科書には出てきませんが、世界史ではフィンランド内線と呼ばれる内線の始まりです。

マンネルハイム率いる白衛軍はただちに徴兵を行い、スウェーデンの義勇兵などとともに赤衛軍との闘いに勝利しますが、政府との対立から1918年にスウェーデンに亡命することになります。

対立の原因は軍事作戦におけるもので、フィンランド上層部はドイツとの関係性が深くドイツの介入に積極的であったのに対し、マンネルハイムはあくまで自国の軍隊を中心および連合国側との結びつきを重視してたためです。マンネルハイムはスカンディナビア全体として武装中立を訴えていましたが、フィンランド内線に勝利するとフィンランド政府はドイツの積極的な介入を許すことになります。

マンネルハイムの予想通りドイツ軍の旗色が悪くなるとフィンランド政府はマンネルハイムを呼び戻し、イギリスやフランスなどとの関係を強化、マンネルハイムはフィンランド国王カールレ1世の摂政となります。

1918年12月にはカールレ1世は退位を発表、1919年よりフィンランドは共和政に移行、マンネルハイムは大統領に立候補しますがロシアの白衛軍を助けるためにロシア進軍を政策に掲げたのが支持を得られず選挙には落選、これを機に公職からは身を引きました。

 

第二次世界大戦と晩年

公職から退いたマンネルヘイムは慈善活動に熱心になり、1921年にはフィンランド赤十字社の会長に就任しています。その後はアジア地方への旅を行い、バグダッド、カイロ、ボンベイ、ネパールでは2mを超えるトラを狩ったという逸話も残っており、その毛皮は今でもヘルシンキのマンネルハイム博物館に飾ってあるほどです。

1931年にスヴィンヒューが大統領に就任するとマンネルハイムは国防委員長に任命され、有事には最高司令官となることが決められ、1933年には陸軍元帥に任命されます。

そして1939年、ソ連がフィンランドに対して東カレリアとカレリア海峡の交換をもちかけると自ら最高司令官の地位に就きこれを突っぱねソ連との戦争がはじまります(冬戦争もしくは第一次フィンランド戦争)。

 

この戦争の結果はフィンランド側の圧倒的な敗北となり、産業の中心であったカレリア地方をソ連側に割譲することになり、フィンランド人の10%以上が家を失う結果がもたらされることになります。

同じころバルト3国もソ連に占領され、デンマークとノルウェーはドイツ軍の侵攻を受けており、フィンランド側はソ連の要求を呑むしかなかったのです。

そのような折の1940年、ドイツの密使がフィンランドの独立要求と引き換えにドイツ軍の行軍許可を求めそれを承認。

ドイツはバルバロッサ作戦にてフィンランドからソ連への攻撃を開始、この際マンネルハイムはドイツ軍への支援は拒否、レニングラードの攻防戦には不参加を決めます。ソ連側は駐フィンランドドイツ軍への空爆を開始、フィンランドとソ連も再び戦争状態になります(継続戦争)。

この際かのアドルフ・ヒトラーがマンネルハイムの誕生日を祝うためにフィンランドを訪れていますが、マンネルハイムは決してドイツ軍への支援は行いませんでした。

ソ連との戦争は劣勢のうちに1944年モスクワ休戦協定を結ぶこととなります。カレリア地方は依然ソ連の領土となり、さらなる領土割譲に加え新たに3億ドルの賠償金(現在の価値に換算すると40億ドル)をソ連の側に支払うことを要求されます。さらには共産党を合法的に認め、ファシスト政党を禁止、フィンランド内にいるドイツ勢力を追い出すことも約束させられました。

その結果ドイツの間にラップランド戦争が勃発しましたが無事ドイツ軍はノルウェーに撤退、不本意ではありましたが戦後はソ連主導の戦後復興が開始されます。

戦後は十二指腸潰瘍などの治療のためにスイスの病院に入院、1951年にローザンヌ州立病院にて永眠。

現在でもフィンランドの国防軍はマンネルハイムの誕生日である6月4日を祝う風習があり、2004年に行われた最も偉大なフィンランド人を決めるコンテストでは1位に輝いています。

個人的なマンネルハイム評

世界史上でも最も困難な時代を生き抜いた人物だと言えます。

日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命、第二次世界大戦と人類が経験した最悪の悪夢の中にあり、ヒトラーやスターリンと言った人物たちと渡り歩いたその政治的手腕は特筆に値すべきと言えるでしょう。

バルト三国やポーランド、ハンガリーなどの南欧諸国がソ連に併合、もしくは衛星国になった歴史を見れば、ソ連と領土を接しながらフィンランドが共産化を免れたのはひとえにマンネルハイムの手腕がなせる業だったと言えます。

一説にはスターリンがマンネルハイムに対して尊敬の念を抱いていたためにフィンランドを共産化しなかったとさえ言われているほどで、その影響力は計り知れないものがありました。

最後のロシア皇帝ニコライ2世の篤い信任を得、ダライ=ラマに会い、ヒトラーやスターリンと言った独裁者からも敬意を表されたマンネルハイムは、世界史上においても第一級の人物だと言えるでしょう。

カレリア地方をソ連に割譲するなど屈辱的な条約を結ばされはしましたが、およそ50倍の国力を誇るソ連相手にほぼ単独で国を守ることはマンネルハイム以外の人物にはできなかったことでしょう。

ドイツやソ連と言った大国相手に渡り合えた政治的な手腕、軍事的な手腕は評価せざる者なしと言ったところでしょうか。

共産圏が現在でも経済や教育の面で他国の遅れをとっているのに対しフィンランドが教育先進国と呼ばれ高福祉を実現しているのも彼の活躍の賜物と言っても決して言い過ぎではないと思います。