歴史には人物から見る面と出来事から見る面の2つがあると思います。

例えば三国志なんかは歴史的にみれば「中国が3つの国に分かれて相争った」という1文で完結してしまいますが、その時代に生きた人物を列伝とした見た時、その魅力は大きく増すと言ってよいでしょう。

三国志に出てくる人物は現代日本でも大人気で、光栄の三国志シリーズやsegaの三国志大戦シリーズなのどのゲーム、横山光輝三国志や蒼天航路などの漫画、吉川英治の小説などその人気はとどまるところを知りません。

劉備や曹操、孫堅、呂布と言った君主や諸葛亮や周瑜、司馬懿などの軍師、関羽や張飛、張遼と言った武将など魅力にあふれた人物が織りなす物語は演義・正史問わず人々を魅了するものがあります。

三国志の時代から約1400年の後、それらの人物たちに劣らないような魅力的で優秀な人物が存在していました。

世界史の教科書などには一切登場しないその英雄の名は「袁崇煥」

今回はその知られざる英雄の生涯についてみていきましょう。

その才覚は諸葛孔明にすら比肩する

袁崇煥が歴史の表舞台に初めて出てきたのは科挙試験に合格した1619年の話。

時は明代の万歴帝の時代、当時科挙試験に合格することはまさに人生の成功が約束されているようなものでした。バブル時代の国家一種試験(官僚登用試験)をさらに凄くした感じですね。

科挙の合格率は時代によっても大きく異なるのですが、最盛期には倍率3000倍ほどであったという話もあります。日本の旧司法試験ですら3%ぐらいでしたので、科挙試験の難しさが良くわかりますね。

科挙の平均合格年齢は35歳前後であったようで、当の袁崇煥も科挙の科目である進士に合格したのが35歳でした。このことからもわかる通り、袁崇煥は元々武人ではなく文人だったわけですが、遼東地方に送られ孫承宗という人物の元に配属されます。

遼東地方と言えば日本史では遼東半島が有名ですが、明代のこの頃は北方異民族女真族の度重なる侵攻に悩まされている時期でした。

特に当時女真族の長であったヌルハチの攻めは苛烈で、1619年にはサルフの戦いで明と朝鮮の連合軍が大敗する結果となっており、明側の劣勢は明らかでした。

このサルフの戦いにおいても顕著だったのですが、兵力、武装、あらゆる面で明が有利だった中でも明側は統率が取れておらず、遼東地方を統べる孫承宗にしても中央勢力における魏忠賢との折り合いが非常に悪かったことがよく知られていました。

魏忠賢という人物は過去に中国歴代王朝を滅亡に導いた秦の趙 高や蜀の黄 皓と同様宦官で、宦官のお約束ともいうべきとんでもない人物で、当時の官僚層であった東林党を弾圧し、賄賂などの手段で政治の実権を握り、やりたい放題過ぎ放題やっていたようです。

例えば酒に酔って魏忠賢の悪口を言った男がいて、その男の顔の皮を生きたまま剥ぎ取り、それを密告した男には大金を与えたというような記録が残っています。

さらには後に日本軍がやるように、ヌルハチ率いる後金に負けた戦いがあってもそれをさも勝利したように報告させていたという記録も残っており、皇帝自体は自国がピンチであることすら知らなかったと言われています。

そんな状態であったので、孫承宗は更迭されてしまうこととなり、代わりに宦官である高第という人物が赴任してきます。

この高第という人物も宦官を絵に描いたような人物で、臆病な性格であり軍事的なことなどは何もわかっていない有様でした。

このような人物を最前線に送ることが明のすべてを表していますね。

袁崇煥は孫承宗時代に寧遠城を築城し、兵制を改めて士気の高い質の高い軍隊を作り上げ、平時には農業をさせることで生産量も増やすという政策を執り行い、民や兵からの信頼を獲得していきました。

 

寧遠城(興城県城)

戦の天才ヌルハチを破る 時代の皇帝をも大いに負かすその才覚

袁崇煥は自ら築城した寧遠城にてヌルハチを迎え撃つことを進言しましたが、高第はそれを無視し、寧遠城は捨て山海関に引きこもることにし、撤兵を決めてしまいます。

残された袁崇煥は同地に残り、1万人の兵をもってヌルハチと対峙、これを破ることに成功します。ヌルハチ率いる後金は甚大な被害を出し撤退、袁崇煥はさらにポルトガルから紅夷砲を購入し軍備を増強、万全の構えでヌルハチを迎え撃つ姿勢を見せます。

戦の天才にして清王朝の創始者であるヌルハチは袁崇煥を直接攻めずに兵站の遮断を実施、袁崇煥を孤立させる戦略をとり、袁崇煥に対して降伏を要求。後金側は高位を約束しましたが袁崇煥はこれを拒絶。

戦が始まると自ら土塁を運び、負傷するもそれを一笑にし自ら最前線に立つとともに最新式装備にて後金軍を圧倒、1626年寧遠城の戦いにおいてヌルハチを撃退、翌年にはヌルハチの息子で実質的に清を建国したホンタイジも撃破することに成功しました。

元々文人でありながら百戦錬磨の後金軍を退けた袁崇煥ですが、彼が活躍するには時代が悪すぎました。

ヌルハチは軍略家としても優れていましたが、それ以上に権謀術数に長けており、明に多数のスパイを贈っていました。また宦官側に告げ口をする人間たちの存在もあり、袁崇煥は常にスパイの存在をあぶりだす必要に迫られていました。

前門の虎後門の狼 苦しんで死ぬことになる悲劇の英雄

ヌルハチという世界史的にみても優秀な敵、明王朝という歴史的にみてもかなりひどい腐敗国家というまさに前門の虎後門の狼と言った状態の彼には悲しくなるほど味方がいなかった。

当時朝鮮方面に毛文龍という人物がいました。

彼は後金を相手に連戦連敗をし、その責任を宦官への大量の賄賂で免れるということを繰り返した挙句、自らは交易によって私腹を肥やしている有様でした。

袁崇煥は後金に勝利するには毛文龍を排除するしかないと判断し、彼を処刑してしまいます。

すると毛文龍の配下たちは後金に投降し、後金側のスパイは宦官を買収、買収された宦官は袁崇煥に謀反の疑いありと時の皇帝崇禎帝に讒言、崇禎帝はいとも簡単にこれを信じ、袁崇煥は捕えられ人類が考案した最悪の拷問系である凌遅刑にて処刑されることとなります。

 

個人的な袁崇煥評

袁崇煥という人物は個人の才覚だけで見たら諸葛孔明はもちろん光武帝や康熙帝と言った人物にも引けを取らなかったと思います。

もしも違った時代の違った環境に生きていたら大活躍が望めた人物だと言えるでしょう。

彼の直接的な敵は後金だったのですが、本当の敵は明王朝だったと言えるでしょう。

袁崇煥を失った明はもろく、1644年には清は滅亡し、袁崇煥を処刑した崇禎帝は自殺することとなります。

ちなみにですが崇禎帝は1611年の生まれで、袁崇煥を処刑した1630年にはまだ10代でした。

明という国家の歴史は科挙によって登用された官僚と皇帝の側近たる宦官の勢力争いの歴史でもあり、滅亡は避けられない運命にあったとも言えます。

明が建国された際、中国はモンゴル系王朝である元の支配下でした。

漢民族の復興という面でもその文化である後宮の文化と宦官の台頭は避けられなかったというべきで、どのような優秀な人物もこれを覆すことはできなかったでしょう。

劉備玄徳が作った蜀の国も、宦官であった黄 皓が滅茶苦茶にしたように、中国の歴代王朝はカリスマによって建国され宦官によって滅びの道を歩むという歴史を歩んでいます。

絶大なる権力を持つものは常に猜疑心にさいなまれ、孤独な生活を強いられます。

宦官は幼いころから皇帝を育て、皇帝が唯一心を許すことのできる存在なのです。

これは中国に限った話ではありませんが、権力には人を引き寄せる力があり、その恩恵を受けようという人間が必ず現れます。

気が付けば周りにはイエスマンだけになり、優秀な人物をどんどん排除するようになり、衰退に向かうようになる。

日本の大企業の多くもこのような状態になっていますね。

事実、明が滅亡した日、崇禎帝のそばにはたった1人の宦官のみが寄り添っていたそうです。