今回は縄文時代と弥生時代について中学生の分野の範囲で見ていきましょう!

*テストに出るところは赤字にしています。

以下の遺跡の場所は覚えておきましょう。

1目でわかるこの記事の内容!

縄文時代以前の日本

日本に人類が移り住み始めたのはおよそ3万年前ごろだと考えられています。

当時は世界的な氷河期の時代で、日本と大陸は陸続きでつながっており、ナウマンゾウオオツノジカなどの巨大生物も生存していました。

余談ですが生物は寒冷の地であればあるほど大きくなる傾向にあり、例えば赤道付近にいるマレー熊(1.5m)よりも北極熊(体長3m)の方が大きくなります。

この頃は打製石器などを用いて狩りをする旧石器時代に分類される生活を人々はおくっていたと考えられています。

1万年ほど前になると氷河期が終わり、海面の上昇とともに大型の生物たちは絶滅し始めます。

そのため狩りによる獲物が減り、人々は主に採集によって食料を確保することになります。

縄文時代

採集による食料保存の必要性があったことから土器の生産が盛んになります。

この時期は縄の跡をつけた縄文土器が大量に作られ、「縄文時代」という名称もこの土器から名づけられました。

この頃になると石を単に打って砕いただけの打製石器だけではなく磨製石器も作られており、世界史的時代区分では新石器時代に分類されるようになります。

磨製石器は狩りに使われる矢じりなどに利用されるようになり、釣り針などを動物の骨を加工して作る骨角器なども作られるようになりました。

この頃の住まいは簡素な竪穴式住居となっており、ゴミ捨て場としての貝塚などが各地で見つかっています。

貝塚は明治時代にアメリカ人のモースによって見つかった大森貝塚が有名ですね。他にも福井県にある鳥浜貝塚や千葉県にある加曾利貝塚なども抑えておきましょう。

埋葬の文化も発展していたようで、屈葬という手足を折り曲げた形で葬られた跡が見つかっています。

この時代には既に大規模な集落を形成していた遺跡も見つかっていて、青森県にある三内丸山遺跡はその代表となりますね。

簡単な農業なども行っていたようで、紀元前5000年の段階で栗の木を栽培していたことが分かっています。

また、各地で土偶が見つかることがあり、おそらくは豊穣や安産を願って作られたのではないかと思われており、原始的なシャーマニズムの萌芽を見ることができますね。

 

弥生時代

弥生時代の興りは紀元前4世紀ごろに稲作が始まった頃だと言われています。

縄文時代には簡易的な農業がおこなわれていましたが、まだまだ狩猟や採集が中心で安定的な食糧生産を行うことはできませんでしたが、稲作によりコメを作り始めたことで食糧事情が一気によくなりました。

稲作にはある程度の人員と設備が必要になるため、クニという概念が登場し始めます。この時期の遺跡としては佐賀県にある吉野ケ里遺跡が有名ですね。

4大文明の時もそうですが、国や巨大な集団というのは農業の興りと共に誕生するわけです。

そうなると一気に文明が進み、朝鮮半島から伝来したと言われる青銅器の製造が盛んになり、祭事に使われる鏡なども登場し始めます。

土器も厚手の縄文土器から薄手の弥生土器に代わり、収穫のための石包丁を補完するための高床式倉庫なども作られるようになりました。

弥生時代の前半には木でできた鍬や鋤などが使われていましたが、後期になると農具や武具は鉄で作られるようになっていきます。

この時期は大陸からの技術伝播が盛んになり、たびたび中国側へ人を派遣している様が中国の歴史書から読み取れます。

中でも「漢書」「後漢書」と「魏志倭人伝」にある記述は当時の日本を知る唯一の手掛かりとなっています。

漢というのは漢字などの漢ですね。紀元前2世紀に起こった国で、劉邦という人が建てました。王家は代々劉家で、強大な中央集権王朝を打ち立て、周辺各国はこぞって朝貢を行った訳です。

漢書によると倭国と呼ばれる地域に100ほどの国があり、互いに争っていたという記述があります。

漢は紀元8年頃に一度滅びるのですが、後に王族の劉秀が後漢を建国、光武帝と名乗ります。

光武帝の元に紀元57年倭の奴国王なる人物が朝貢した記録が後漢書に残っており、この際に贈られたと言われる金印(委奴国王印)が福岡県の志賀島で江戸時代に見つかっています。

後漢書には107年に倭国王帥升なる人物が後漢に160人の奴隷を贈ったという記録も残っています。

後漢も3世紀始めに滅び、三国が鼎立する時代になるのですが、その中の1国魏の国に使いを送った記録が魏の国の歴史書魏志の中にある倭人伝に残っています。日本側はこれを「魏志倭人伝」と呼んでいます。

その際の記述には倭国には大乱が起こっており、邪馬台国卑弥呼がそれを収め、30国ほどを納めているという記述があります。

卑弥呼が魏に使いを送ったのが239年のことで、その際魏の国から「親魏倭王」の位を授かっています。これは魏の名において邪馬台国に日本の支配を認めるという内容です。つまりは邪馬台国は中国側の後ろ盾を得たということですね。

なお邪馬台国がどこにあったかはいまだにわかっていません。奴国王などの関係から九州にあったと推測するのが自然ですが、後の大和王朝などが関西に起こったことから関西説も根強いです。

古代史は新たな発見で過去の定説が覆ることもあるため、なかなか面白い分野でもありますね。