前回はナポレオンがセントヘレナ島に流されるまでをやりました。

今回はナポレオン退位後のウィーン体制から見てみましょう。

前記事:試験に出るナポレオン時代(第1帝政)についてプロが解説!【受験対策】

ウィーン体制・復古体制

1815年、ナポレオンが退位するとオーストリアのウィーンにてヨーロッパ各国の代表が集まりウィーン会議が開かれました。

「会議は踊るされど進まず」という言葉が表すように、革新的なことは何も決まらず、ひたすら社交に明け暮れていたそうですね。

まずはウィーン会議の主な参加者を抑えておきましょう。

フランス:外相タレーラン

オーストリア:フランツ1世 メッテルニヒ

ロシア帝国:アレクサンデル1世

プロイセン王国:フリードリヒ・ヴィルヘルム3世

イギリス:ステュアート

開催場所がウィーンということもあり、会議はメッテルニヒの主導で勧められました。

ウィーン会議で決定したことの中で重要なのは以下の点です。

・フランスにおけるブルボン朝の復活

・スペインでもブルボン朝が復活

・神聖同盟の結成

・4国同盟の結成(のちに5国同盟)

ウィーン会議の原則は「正統主義」と言われる復古政策にあります。スペインとフランスで王制が復活したのが象徴的ですね。

神聖同盟というのはオーストリア、ロシア、プロイセンで当初は発足し、のちにイギリス、トルコ、ローマ教皇領を除くすべてのヨーロッパの君主が参加する同盟となりました。

4国同盟はオーストリア、ロシア、プロイセン、ドイツの4か国で結成され、1818年にはフランスも加わり5国同盟になりました。

すべての物事が王室や貴族などで取り決められ、平民が付け入るスキのない体制を築き上げたと言えますが、革命の芽は完全につぶれたわけではありませんでした。

フランス7月革命

ブルボン家のルイ18世が死去すると次代のシャルル10世はより一層の反動政治を行うようになりました。具体的には言論の弾圧や亡命貴族の保護、フランス革命時の貴族の損失補填のための巨額の予算など、まさに時代錯誤な政策の数々に民衆は大きく反発しました。

1830年その反発をそらすためにアフリカ北部にあるナイジェリアに侵攻し植民地化したのですが、国民はそれでは収まらず、そのままパリの街を占拠し、シャルル10世は逃亡、その後はオルレアン公であるルイ=フィリップがフランス王座につき立憲君主制の七月体制がはじまりました(七月革命)。

革命の火はネーデルラントにも飛び火し、南ネーデルラントがベルギー王国として独立を果たします。

ロシアではポーランド騒乱が、イタリアではカルボナリ党の反乱がおこりますがそれぞれロシア・オーストリア軍に鎮圧されることとなります。

フランス2月革命と第2共和政

7月革命で王座についたルイ=フィリップでしたが、選挙は極端な制限選挙となっており、国民のわずか1%未満ほどしか参加できないものとなっていました。

そのため選挙制度の改善を求めて選挙法改正運動を展開していたのですが、政府側はこれを制限する動きに出ました。

それに反発した民衆側はデモ、ストライキを行い首相であったギゾー辞任、それでも民衆はおさまらず、ついに武装蜂起し、ルイ=フィリップは国外に逃亡し、新たな憲法の制定とともに臨時政府が組織されました(2月革命)。

1848年に起こった一連の革命を2月革命と呼び、その結果出来上がった政体をフランス第2共和政と呼びます。

革命の火はヨーロッパ中に飛び火し、ウィーンやベルリンでも革命がおこり、ハンガリーやサルデーニャでは反乱がおこります。これによってウィーン体制は完全に崩壊しました。

民主化に成功したフランスではナポレオン=ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオンが大統領となります。

2月革命の簡単流れを整理すると以下のようになります。

1848.2月:臨時政府成立 ルイ=ブラン国立作業場設置

1848.4月:四月普通選挙実施(男子のみ)⇒社会主義派惨敗

1848.6月:労働者の六月暴動鎮圧

1848.11月:第二共和国憲法制定

1848.12:ルイ=ナポレオン大統領になる

フランス第2帝政

ナポレオン1世のフランス国内での人気は高く、ボナパルティズムと言われる英雄主義が蔓延していました。

2月革命後に大統領となったルイ=ナポレオンは1852年、国民投票により帝政を宣言し、ナポレオン三世を名乗ります(フランス第2帝政)。

ナポレオン3世下の出来事は以下のようになります。

1854:クリミア戦争

1856年:アロー戦争

1856年:インドシナ出兵

1859年:イタリア統一戦争

1861年:メキシコ出兵

1867年:パリ万博

1869年:スエズ運河開通

1870年:普仏戦争

記載はしませんでしたが、ちょうどこのころは日本は幕末の時期で、ロッシュを通じてフランスは江戸幕府を援助していましたね。

ナポレオン3世は積極的に海外の問題に介入していき、フランスの国際的地位の向上に努めました。

皇帝に即位するとすぐにクリミア戦争に介入し、ロシアを破って講和会議をパリで開催、アロー戦争やインドシナ出兵などに代表されるように植民地の獲得に精力的で隣国イタリアの統一戦争にも介入するなど基本的には順調でしたが、メキシコ出兵の際に失敗した後はビスマルク率いる宿敵プロイセンとの闘いである普仏戦争で敗北するなど成果を上げることはできずプロイセン軍に捕縛、そのまま退位という形になりました。

統治の前半はパリ市の整備や鉄道網の整備など功績をあげていましたが、後半は失政が多くなり、特に普仏戦争における敗北はアルザス=ロレーヌ地方を失っただけでなくのちに1次大戦および2次大戦へとつながっていくことになります。

フランス第三共和制とパリ=コミューン

ナポレオン3世の退陣後、フランスは再び共和制へと移行します(フランス第3共和政)。

この際パリでは史上初の労働者による政府であるパリ=コミューンが樹立されますが政府軍に鎮圧されます。

1875年には第3共和国憲法が制定され、1881年にはチュニジアの保護国化、1887年には仏領インドシナが成立、1891年には露仏同盟が結成されることとなります。

一方国内ではブーランジェ事件ドレフュス事件など影のある事件が相次ぎ、次代は混迷へと進んでいくことになります。

この時期にはイギリスの植民地政策とフランスの植民地政策がぶつかることになり、特にアフリカにおいてイギリスはエジプトから南アフリカを縦断する政策、フランスは西アフリカから大陸を横断する政策をとっており、1898年スーダンにあるファショダ村にて衝突寸前となりました(ファショダ事件)。

これを契機にイギリスとフランスは急速に接近していき、1904年には英仏協商が結ばれます。

一方ドイツとの間は悪化し続け、1905年にフランス領であったモロッコのタンジールに突如ヴィルヘルム2世が降り立つという事件が起こります(タンジール事件)。この事件の結果はスペインにあるアルヘシラスにて会議が行われ、モロッコは事実上フランス領となりました。

当然モロッコ側の反発も強くなり、しばしばモロッコでは反乱が起きており、1911年ドイツがその隙に乗じて砲艦をモロッコの港湾都市アガディールに派遣すると緊張状態となり、その解決のために行われたフェス条約でフランス側はカメルーンをドイツに割譲することとなりました(アガディール事件)。

第1次世界大戦

イギリス・フランス・ロシアを中心とした3国協商とドイツ・オーストリア・イタリアを中心とした3国同盟との間で第一次世界大戦が勃発します。

1次大戦の基軸はフランスとドイツの対立にあると言ってよく、ビスマルク以降植民地獲得に意欲的なドイツとそれを妨害しようとするフランスがそれぞれ対立し、またバルカン半島におけるロシアのスラブ主義とドイツのゲルマン主義との対立から第一次世界大戦が起こります。

フランスの歴史において一次大戦で押さえておきたいポイントは以下のようになります。

1914年8月:タンネンベルクの戦い

1914年9月:マルヌの会戦

1915年5月:イタリア3国同盟を離脱

1916年2月:ヴェルダン要塞の攻防戦

1916年6月:ソンムの戦い

1917年3月:ロシア3月革命

1917年4月:アメリカ参戦

1918年1月:ウィルソン十四か条の平和原則発表

1918年:ドイツ革命 ヴィルヘルム2世オランダへ亡命

1次大戦について本気で書くと本何冊分にもなってしまうので簡単に流れだけを追います。

上記でフランスが舞台となったのはマルヌの会戦とヴェルダン要塞の攻防戦、ソンムの戦いの3つです。

1次大戦の代表的な戦いのうちほとんどがフランスを舞台としていることが分かりますね。

フランスはドイツ軍に対してある意味防戦一方でしたが、イタリアの裏切りやアメリカの参戦などドイツ側の情勢の悪化もありなんとか耐え忍び、1次大戦末期にはドイツのキール軍港での反乱を発端とするドイツ革命がおこりドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は亡命、戦勝国となりました。

ヴェルサイユ体制と二次大戦前夜

第一次世界大戦の講和会議はフランスのパリにて行われました(パリ講和会議)。

講和会議ではドイツやオーストリアなど同盟国側は参加することができず、協商側の一方的とも呼べる取り決めがなされます。

講和会議であるヴェルサイユ条約の主な内容は以下の通りです。

・ドイツの全植民地放棄

・アルザス・ロレーヌ地方のフランスへの帰属

・ザールの所有権はフランスに

・ポーランド回廊はポーランド領に

・ダンチヒは国際連盟の管理に

・オーストリアとの合併禁止

・ブレスト=リヒト条約の失効

・軍備の制限

・賠償金の支払い

完全にドイツ憎しで作られた条約と言えますね。

内容については当時から疑問視する声が大きかったようで、特にイギリスからはやりすぐだとの声もあがっていたようですが、フランス側は強硬に内容を主張、この内容が後のナチス台頭へつながったのは言うまでもないでしょう。

ちなみにドイツに対してはヴェルサイユ条約が調印されましたが、オーストリアに対してはサン=ジェルマン条約が、ブルガリアに対してはヌイイ条約(それぞれ1919年)が、ハンガリーに対してはトリアノン条約、トルコに対してはセーブル条約がそれぞれ結ばれました。

サン=ジェルマン条約ではポーランド、チェコ、ハンガリーなどの独立が盛り込まれ、オーストリア帝国の領土および人口は4分の1ほどとなり、セーブル条約ではトルコの土地がギリシア・イギリス・フランスに割譲されることになりました。

翌年1921年にはワシントン会議が開かれ、それぞれの国に軍縮を呼びかける形となりました。

アメリカ大統領ハーディングの呼びかけによるもので、参加国はアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国で以下の3つの条約が結ばれました。

4か国条約:日本・イギリス・アメリカ・フランスで締結され、日英同盟の破棄と太平洋の現状維持を内容とする

九か国条約:参加国すべては締結、中国の領土保全、機会均等、門戸開放が決定

海軍軍備制限条約:日本・イギリス・イタリア・アメリカ・フランスで締結、海軍の保有割合を決定。

フランス側のドイツへの取り立ては熾烈を極め、1923年にはベルギーとともにルール工業地帯を占領するなど強硬策に出ています。

以降第二次世界大戦までのフランス国内の出来事は以下になります。

・1924年:ドーズ案採択(ドイツ賠償問題へのアメリカの介入)

・1925年:ロカルノ条約(ラインラントの現状維持と相互不可侵が決定)

・1926年:ドイツ国際連盟に加入

・1928年:パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定

・1929年:ヤング案(ドイツの賠償金を大幅減額)

同年:世界恐慌の開始

・1933年:ヒトラー首相就任 ナチスドイツの誕生

・1935年:ドイツ再軍備宣言

・1938年:ミュンヘン会談(ドイツのズデーデン併合を認める)

・1939年 ドイツポーランドへ侵攻 第二次世界大戦がはじまる

世界恐慌とナチスの台頭という恐怖の時代に人類が進んでいき、ついには歴史上最悪の戦争である第二次世界大戦が勃発します。

第二次世界大戦

第二次世界大戦がはじまるとドイツは電撃的にポーランドに侵入、ノルウェーやベルギーなどの中立国にも侵入を開始し、1940年にはフランス軍を降伏させるに至ります。

ナチスドイツはペタンを首相とする傀儡政権ヴィシー政府を成立させますが、その1月前にはイギリスのロンドンにてド=ゴールが自由フランス政府の樹立を宣言しています。

その後4年間フランスはドイツ軍に事実上占領されることとなりましたが、1944年にアメリカのアイゼンハワーを司令官とするノルマンディー上陸作戦により解放され、翌1945年にはドイツが降伏、8月には日本が降伏することで第二次世界大戦は終了となりました。

戦後のフランス~第4共和政と第5共和政

二次大戦後の1946年には第4共和政憲法が成立し、1947年には正式にフランス第4共和政が誕生しました。

この第4共和政政府に関してはあまり良いところはなく、ベトナムにおいて起こったインドシナ戦争においては1954年のディエンビエンフーの戦いにおける敗北をきっかけに撤退、同年に起こったアルジェリア問題では泥沼化、イギリスとともに出兵したスエズ戦争ではスエズ運河に対する影響力をなくす結果に終わると散々な有様となってしまい、アルジェリア駐屯軍はクーデターを敢行、ナポレオンの故郷であるコルシカ島を占拠するに至りました。

事態を収束するためにシャルル=ドゴールを首相に任命、ドゴールはそのまま大統領に権力を集中させる新憲法を制定、国民投票により承認を得た後の1959年フランス第5共和政が誕生しました。

ドゴール以降も大統領が絶大な権力を持つ政体は維持され、シラク大統領の核実験やイラク派兵の拒否に代表されるように独自路線を進んでいます。