地域史としてのフランスの歴史を、受験対策という面から世界史検定1級というマニアックな資格を持つ管理人がまとめてみたいと思います!

*赤字の部分は特にテストで聞かれやすい部分です。

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フランスの地理的特徴

歴史を学ぶ上で地理的な特徴をつかむことはとても大事です。

フランスは南部は地中海に面しており、1年を通して気温があまり変わない所謂地中海性気候に属しており、西部は暖流である北大西洋海流の影響もあり西岸海洋性気候に分類されます。

地理を学んでいないとピンとこないと思いますが、高緯度の割には温暖で、基本的に温帯に属します。

フランスの緯度は基本的には日本の北海道と同じぐらいの緯度に属するのですが、海流などの影響で平均気温がマイナスになるようなことはないのですね。

それでも東京などに比べると寒いため中世のころまでは寒さをしのぐために毛皮などが必要になってきます。

この辺りはフランスの中世史を理解する上で非常に重要になってきますね。

先史時代のフランス(紀元前1世紀まで)

フランスは歴史のある国というイメージがあると思いますが、実は紀元1世紀ごろまでは歴史の表舞台には出てきません。

フランスが初めて世界史の舞台に登場するのは「カエサル」の「ガリア戦記」からだと言ってよいでしょう。

これは共和制ローマ末期の武人カエサルがガリア地方(当時のフランスの呼び名)を遠征した時にまとめた書物となっています。

日本史で最初に出てくる人物が紀元57年の「委奴国王」であり、「漢書」という中国側の資料によるものだったことと似ていますね。

この時代までに世界史に出てくる用語は「ラスコー」の洞窟壁画だけです。

ラスコーはクロマニョン人の遺跡と言われており、スペイン北部にある「アルタミラ」とともによく出てくるので場所と一緒に覚えておきましょう。

共和制ローマ~古代ローマ帝国時代

ローマの軍人カエサルによってローマ帝国の一部となったフランス(ガリア)は急速にローマ化が進みます。

フランス語はイタリア語やスペイン語とともにロマン種語族系と言われラテン民族であるという区分がされています。

隣国のイギリスやドイツはゲルマン系言語のゲルマン民族が中心となっている点とは対照的です。

この部分は割とのちのフランスの歴史において重要で、フランスはことあるごとにイギリスやドイツと対立していますね。

この時代のフランスにおいて特に試験に出るような単語は出てきません。

フランク王国

フランスが積極的に世界史に登場するのはフランク王国からとなります。

先ほどフランスに住んでいる人たちはラテン系の民族であると話しましたが、フランク王国の建国者はゲルマン民族です。

ゲルマン民族は古代ローマ帝国のころから傭兵として雇われていたのですが、モンゴル系騎馬民族である「フン族」の圧迫によりヨーロッパ地方への本格的な移住を始めることになります。

375年に始まる「ゲルマン人の大移動」はヨーロッパの歴史に大きな影響を与え、東西に分裂した西ローマ帝国を滅亡させるに至ります(476年)。

ヨーロッパに侵入したゲルマン民族はいくつかの国を作りますが、その中でも最も強力な勢力となったのが「フランク王国」です。

メロヴィング朝フランク王国

一口にゲルマン民族と言っても多数の部族に分かれており、481年にクローヴィスがフランク諸部族を統一して建てた王国が「フランク王国」の始まりとされています。

フランク王国は時期によって「メロヴィング朝」と「カロリング朝」に分かれており、481年から751年までがメロヴィング朝の時代となりますね。

*余談ですがメロヴィングというのはクローヴィスの祖父の名前であるメロヴィクスから名づけられました。

メロヴィング朝時代のフランク王国で重要なのは以下の3点となります。

① アタナシウス派のキリスト教に改宗した(496年)

② ブルグント王国を併合した(534年)

③ トゥールポワティエの戦いに勝利した(732年)

特にテストや受験で出やすいのは①と③ですね。

特に①は選択肢問題などで間違いやすいので注意です。

フランスと言えばローマカトリックの国というイメージがあると思います。

395年にキリスト教をローマ帝国が国教に定めて以来フランスに住む人たちの精神的支柱はキリスト教にありました。

少数派であるゲルマン民族がラテン民族を支配するにはそこに寄り添う必要があったわけですね。

古代における王朝は強く宗教と結びつく点は重要で、日本でも聖武天皇が大きな大仏を建立したのが良い例です。

民族は違えど同じ神を信仰するならば仲間ですし神の前では平等な訳です。

なおキリスト教におけるゲルマン民族とローマの対立は現在でも続いており、のちの宗教改革がドイツやイギリスと言ったゲルマン系国家で起こったこともこの辺りのことと無関係ではないでしょう。

ゲルマン人からするとラテン民族にある意味屈服したともいえるわけです。

メロヴィング朝は徐々に力をつけていき、現在のフランス南東部にあるブルグント王国を併合します。

このようにヨーロッパではキリスト教勢力が伸長する中アラビアで起こったイスラム教勢力が破竹の勢いで勢力を拡大していき、アフリカの北部からイベリア半島(現在のスペイン)を征服するまでになっていました。

イスラム強国の1つである「後ウマイヤ朝」はフランク王国をも併合せんとする勢いでジ・ハード(聖戦)を展開していきます。

このようにしてイスラム・キリスト教の天下分け目の決戦である「トゥール・ポワティエの戦い(732年)」が始まります。

この戦いは歴史的に非常に重要な戦いであるため年号も良く出ます。私は当時「ナミニ乗るトゥール・ポワティエ」の戦いと覚えていました。

さて、イスラムとの闘いに勝利したフランク王国ですが、このころには国の実権はカロリング家の宮宰「カール=マルテル」が握っており、ローマ教皇の後ろ盾もありマルテルの子供であるピピン3世(小ピピン)はカロリング朝を創始し、メロヴィング朝の時代は終了しました。

カロリング朝フランク王国

建国の際にローマ教皇の助力を得たこともあり、カロリング朝下のフランク王国はローマカトリックよりの政策を行います。

カロリング朝フランク王国で押さえておきたいのは以下の3点となります。

① ランゴバルド(ロンバルド)王国を攻めラヴェンナ地方を教皇領とし、のちにランゴバルド王国を滅ぼす。

② 教皇レオ3世よりローマ皇帝の帝冠を得る。

③ ヴェルダン条約にて3国に分裂

ランゴバルド王国は同じゲルマン民族の王国なのですが、ピピン3世はここを攻めるとラヴェンナ地方などをそのままローマ教皇に寄進します(754年)。この一連の流れを世界史上では「ピピンの寄進」と呼びます。

ピピンの息子であるカール1世も同様の路線をとり、ランゴバルド王国を滅ぼすとザクセン地方(ドイツ北部)やスペインに遠征をし、その版図を拡大させました。

そして紀元800年には有名な「カールの戴冠」が行われます。

これによってカール1世は名前をカール大帝(シャルル=マーニュ)とし、ローマ教皇よりローマ帝国皇帝の位を授かります。

この出来事には2つの大きな意味があり、フランク王国がローマ帝国の権力を受けついだということを大きく知らしめる意味と、ローマ教皇を頂点としたローマカトリックの権力が確立されたという意味の両面があります。

これによってローマカトリックの中世ヨーロッパにおける支配権が確立し、教会勢力が大きく伸びていくわけです。

また、カール大帝がローマ帝国の継承権を得た影響でフランク王国の系譜を継ぐ国がのちに「神聖ローマ帝国」を建国することになります。

ちなみにカール大帝は皆さんの良く知っているトランプのハートのキングのモデルとしてもよく知られ、「ローランの歌」という物語にも登場します。

*カールというのはドイツ語的な読み方で、フランス語の発音ではシャルルとなります。なのでシャルル=マーニュでカール大帝という意味になる訳ですね。ラテン表記では「カルルス=アウグゥストゥス」になったりします。

カール大帝の元で最盛期を迎えたフランク王国ですが、ルイ1世の時にヴェルダン条約(843年)にて3か国に分裂します。

元々フランク族の伝統では後継者に領土を3分割することになっており、カール大帝やピピン3世の時も分割されて継承されていたのですが、後継者を幽閉したり亡くなったりしたため強大な王国になったという経緯もあります。

フランク王国は「西フランク王国」「ロタール王国」「東フランク王国」の3つに分裂し、それぞれフランス、イタリア、ドイツの基礎となりました。

その後のメルセン条約(870年)においてロタール王国はイタリア王国となり避暑地で有名なプロヴァンス地方が西フランク王国に移譲される形となります。

カペー朝フランス時代

ヴェルダン条約にて3分割されたフランク王国のうち西フランク王国が現在のフランスの領地に近い形となります。

987年にカロリング朝が断絶し、パリ伯であったユーグ=カペが王位につくとカペー朝が始まります(987年)。

カペー朝は王権が始まったころは非常に勢力が弱く、領土もパリ近郊に限られているほどでした。

12世紀後半までは特筆するような事項はなく1095年のクレルモン公会議により決定した第1回十字軍に参加したぐらいです。

勢力が強くなるのは第7代国王であるフィリップ2世の頃からで、この時代に第3次十字軍(1189年)の参加などが起こりました。

このころからフランスはイギリスとの闘争に明け暮れるようになり、イギリスのプランタジネット朝とは特に激しい抗争を繰り広げることになります。

フィリップ2世はイギリス国王である獅子心王リチャート3世(リチャード・ザ・ライオンハート)やその弟である失地王ジョンなどを相手に上手を取り、ノルマンディーやアンジューなどを奪取することに成功します。

このころのイングランド王は現在のフランス国内にも領土をもっており、イングランド王はノルマンディー公を兼ねていました(ノルマンコンクエスト)。フランス側から見るとイギリス側の勢力を弱体化させた名君であり、尊厳王の名前で親しまれています(フランス語でオーギュスト、ラテン語でアウグストゥス)。

ただしフィリップ2世の離婚問題やアルビジョア十字軍をめぐる問題においてローマ教皇との仲が悪化してしまいます。

教皇のバビロン捕囚

そして1309年に世界史的大事件「教皇のバビロン捕囚」が起こります。

元々の原因はルイ9世の時代に参加した第7回・第8回十字軍における財政圧迫を解消するためにフィリップ4世が国内の聖職者への課税を行ったことでした。

ローマ教皇側は当然反発したわけですが、フランス側は国内における身分制会議三部会を招集し聖職者への課税を決定します。

これに反発したローマ教皇ボニファティウス8世との間で「アナーニ事件」(1303年)が起こります。

フランスはボニファティウス8世の売官や教皇庁の腐敗などを糾弾し、教皇側はついにフランス国王を破門するに至ったわけです。

これを不服としたフランス側はイタリアに軍を派遣しボニファティウス8世を捕えます。その後は解放されたのですが、すぐに亡くなってしまい、後継にフランス人であるクレメンス5世を教皇にすることに成功しました。

*ここまでフランス王が強気に出た背景には十字軍に失敗によるローマ教皇の弱体化が背景としてありました。

その後は教皇庁をローマからフランスのアヴィニョンに移してしまいます。これを故事になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ぶわけですね。

これによってフランスはローマカトリックから独立する形となり、このことをガリカニスムと言います。

*フランスの旧名であるガリアからきている訳ですね。

100年戦争

このように絶頂とも思える勢力を誇るフランスのカペー朝ですが、第15代シャルル4世が亡くなると世継ぎがいない問題が起こります。

カペー朝は本来カペー家の子孫が継ぐことが法典化されているのですが、カペー朝の断絶を受けてヴァロワ家が王位を継ぐことになりました(フランスヴァロワ朝)。

*ヴァロワ家もカペー家の血を受けついでいるため。

そしてそこに反発したのがプランタジネット朝のイングランド王エドワード3世です。

エドワード3世の母はフィリップ4世の娘にあたるため王位継承権を主張したわけですね。

ここにおいて100年以上の長きにわたる通称100年戦争(1337~1453年)が勃発するわけです。

この戦争の末期に登場したのがシャルル7世の時代に登場したジャンヌ=ダルクです。

10代の少女が国を救うというウソみたいな本当の話で、世界市場でも非常に稀な人物だと言えます。彼女の活躍により圧倒的劣勢だったフランス側に流れは向き、イギリス側はカレーとチャネル諸島以外の領有権を失ってしまいます。

なお救国の英雄であるジャンヌ=ダルクは宗教裁判において火刑に処されています。

彼女の名誉が回復されたのは1920年、カトリック教会が彼女を聖女に列した時です。ちょうど第1次大戦が終わった頃の話ですね。

100年戦争が起こったきっかけは当然王位継承権問題もあった訳ですが、最も大きな問題は「毛皮」の問題でした。

イギリスというと羊飼いのイメージがあるかも知れませんが、フランスは寒さをしのぐための羊毛をイングランドからの輸入にたよっており、当時の毛織物業の中心がフランドル地方にありました(現在のオランダ、ベルギー、フランス北部にまたがる地方。フランダースの犬で有名ですが、開戦当時はフランス領でした)。

エドワード3世はフランスへの羊毛の輸出を停止し、フランドル地方の反乱を誘発し、決起した反乱軍がフランドル伯を追放するという事件が起きています。

すべての戦争には本音と建て前があります。

そして本音の部分はすべて経済的なものです。

十字軍はイスラム勢力に奪われた聖地エルサレム奪還を建て前としていましたが、途中からは同じキリスト教国さえ標的していますよね。

本音の部分ではイスラムが東方貿易によって蓄えた富を奪うための戦争でした。

世界史ではこのように本音の部分はどこにあるのかということを考えるのが重要になってきますね。

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